泣ける小説。
細かく見れば、ちょっとそれは、と思う箇所も、多々ありますが、泣ける小説です。
小説はネタバレはよくないと思っているのですが、今回は例外で、内容に触れながら、感想を書きたいです。
主要な登場人物は、
①子供を事故で亡くしたの女性
②その女性の父親(痴ほう)
③虐待を受けていた子供
です。
この子供③を女性①が拾うところから話が始まります。
理詰めで厳格すぎた父と娘は確執があったのですが、ボケることを通して、関係が変化していきます。
おじいちゃん②は痴ほうが進むにつれ、記憶があいまいになり、過去が消えていき、自分がわからなくなっていきます。
おじいちゃん②と子供③が初めて会話するのは、阿弥陀堂なのですが、
子供③は「ずっとぼくでいられるように」祈りました。
この、『ぼく』は、この少年が選んだ『ぼく』です。虐待されていた犬養洋一ではなく、女性①がつけた名前、里谷拓未でいたいのだと思います。(でも誤読かもしれない、単に自分らしくありたいという意味かも?)
そこで一緒に、おじいちゃん②も、同じことを祈ります。
しかしボケが進むにつれ、記憶が消えていくにつれ、自分が何者か確信する手がかりすらなくなっていきます。【自我とはなんとむなしく頼りないものなのか。】←おじいちゃん②の日記より
記憶がないから、常に現在を生きているおじいちゃん②は娘①も子供②もわかりません。不安です。
おじいちゃん② おまえは誰だ!
子供③ おじいちゃんの孫だよ
おじいちゃん② 誰が決めたんだ。聞いてないぞ。
子供③(笑みをうかべながら) 僕が決めたの
おじいちゃん②(笑いだして) そうか。それならわしも決めよう。わしはお前のおじいちゃんだ。
自分は何者か? 過去の記憶の続きか、他人が認識している私か、自分が決めるのか。
自我を通して、意地を張り、不和になっていた親子が、痴呆により、かえってわかり合えるようになっていく。
少年③については、読んでのお楽しみということで。
タイトルにある嘘も、いくつも出てきます。いろんな嘘があります。
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そういえば、以前、自分は何者か?、というテーマの漫画を読みました。
ファイアパンチ 藤本タツキ
です。
自分が何者かは、他者に評価されてはじめてわかる
演じ続ければそれが自分になる
なりたい自分になる
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生きているということは恒常性。
もし脳がアルゴリズムなら、私らしさとは、ただの思考の癖でしょうか?それとも見た目?
どちらもお勧めの本ですが、
社会から役割を決められて、それを演じることを強要されている、本来の自分?とまわりのみなすキャラクターにギャップを感じている人には、登場人物の苦難は、感情移入の手掛かりになるし、最後にはそういった苦しみを終わらせてくれる大詰めがあります。
自己決定が幸福度を上げるらしいので、社会の歯車になって強いられた役割をこなしているだけで一生を終える、と感じているなら、不幸なことです。